前回(その1)の続き。
「さらけ出す」とひと口に言っても、いろんな受け取り方があるよなぁ、という意識からはじめたこの調査。みんなどんな風に「さらけ出す」って言葉を遣っているんだろう?今回はクリエイターのプラットフォームを運営するお二人のやりとりから検証したいと思います。
(前回から時間が空いて口調が変わっていますが、書き手は同一人物です)
『宇宙兄弟』などの人気作品を擁立するクリエイター・エージェンシー「株式会社コルク」。この企業の行動指針には
1.さらけだす 2.やりすぎる 3.まきこむ
の3点が挙げられている。なんとはじめに「さらけだす」という言葉が登場しているのだ。そして以下のようなフレーズが添えられている。
さらけだすと、心に届く。
やりすぎると心の奥深くに届く。
まきこむと、多くの人の心の奥深くに届く。
うーん、わかるような、わからないような!
この「さらけだす」の部分にひっかかって疑問を投げてくれたのが、cakesやnoteを運営する株式会社ピースオブケイク代表の加藤貞顕さん。
この記事で加藤さんは、冒頭から「いや、さらけだしたくないでしょ」と身も蓋もないつっこみを入れる。あくまで”コンテンツをつくるクリエイター”という目線になるが、そこには「さらけだす」ことに対する加藤さんの次のようなご意見があった。
ひとがなにかをさらけだすと、たしかに人目を引く。そういう意味では、魅力的なコンテンツになる可能性が高いのも事実だ。でもそれは、危険と隣り合わせなのではないかと思う。
さらけだした感情とか、想いというのは、とにかく強烈だ。
「服を脱ぐ」ことにちょっと似ていて、それ自体にインパクトがある。さらに脱いでいくと、最後にはもう脱ぐものがなくなってしまう。料理にたとえると、ケチャップやマヨネーズのようなもので、入れると確実においしくなるけれど、つくる側も、味わう側も、繊細な感覚がなくなるリスクがある。
たしかに、さらけだすのは、コンテンツづくりのひとつのやりかただとは思う。でも、その場合も、それだけでは足りなくて、なにか「芸」をプラスする必要がある。むしろその部分こそが、ただの露出狂になるのか、アートになるのかを分けることになるだろう。
表現手段としての「さらけだし」のインパクトを指摘し、そこから出来上がるものが”大味”になることを危惧している(と解釈した)。そういう捉え方もあるなぁと思う。
さて、文脈が違うから当たり前だが、こころ館のいう「さらけ出し」は加藤さんのそれとはちょっとニュアンスが違う。人に見せるための物ではないし、ある意味”露出狂”寄りになるのかもしれない。さらけ出し=強烈、という前提もおもしろい。その”強烈”な感情を受け入れたくない、受け入れきれなかったらどうしよう…という恐れが、さらけ出すことにリスキーな印象が伴う理由のひとつなのかな、とも思った。こころ館の「さらけ出し」においては、じわじわくるさらけ出し・後から気づくさらけ出しなど、その強烈さは個人差な気もする。
この加藤さんの記事を受けて、コルク代表の佐渡島庸平さんはこんなアンサーを書いた。
結論からいうと、コルクにおける「さらけだす」とは
「自分の欲望が何なのか?」「自分が今、どのような状況なのか」を周りに分かるように伝えること。
互いに理解し協力できるチームになるための行動として、「さらけだす」を指針にしているのだ。世の中一般の「さらけだす」すなわち「自分の恥部、知られたら嫌なことを、外部にオープンにすること」をさすのではない、という。
佐渡島さんは「さらけだす」を次のように用いている。
相手に自分の気持ちを察してもらおうとするのをやめよう。相手が自分と同じ考えだろうと勝手に推測するのをやめよう。全く違う考え方をしていると想定して、自分が何を欲し、今どんな状況にいるのかさらけだそう。
これを読んで、佐渡島さんの「さらけだす」はこころ館が志向する「さらけ出す」とけっこう近いんじゃないかと思った。一見違う表現なんだけれど、さらけ出した先には他者理解がある、という目線が似てるなぁと思ったのだ。僭越ながら。
佐渡島さんは、個々がさらけ出しあえる関係にあるチームの”よさ”を知っているように感じるし、こころ館がさらけ出しを推奨する理由もそこにある気がする。自分どまりじゃない。他者や社会とつながって、みんなで幸せになるのが私たちのゴールです。最後ちょっと飛躍したけど!
…ともあれ、今回も都合良く抜粋&解釈しているので、詳しくはぜひリンク先の本文をご参照下さい。調査は続く。
0コメント